予期不安から逃れるコツ

イラスト:秋山ののの

「明日のハナコ」という演劇が福井県の教員たちから排除される事件に怒り、立ち上がって運動を起こしたことがきっかけになって、いろんな人と知り合えた。もちろん、演劇部顧問、劇作家、演出家の全国組織からはことごとくこの人権侵害に「抗議しない」という決定を受けて、私はたいへん厳しく追い込まれたのも事実だ。しかし、禍福は糾える縄の如し。幸運だってそこから来たことを、きちんと認知しようと思う。
一年たって「明日のハナコ」の事件に取材したわけではない、と副題にした『ニッポン人は亡命する』という戯曲を書いた。書かされたと言っていい。東京旅行したときに会った演出家に「それをぜひ書くべきだ。書いてほしい。うちの劇団に書いてくれ」と言われたのがきっかけだ。あまりにも渦中の人間として体験したそんなことがらを、脚本にまとめあげるなんてこと、私にはできそうにないと思えた。「そのまま書けばいい」とか「なまの感情はそのまま創作の原動力になるでしょう」とか、もちろん好意と期待に満ちたことばで励まされるのだが、ある程度距離をとってその光景を眺めないと、風景画は描けないだろう。嵐に揺れる舟に乗ったまま揺られる舟を描くことなど無理だ。私は励ます人の気持ちをありがたく受け止めつつ、片方で恨みたくなるくらい、断りたかった。けれど、事件が起こって以来、ずっと胸の奥の方でくすぶる熾火のような言葉をなかったことにして封印するべきじゃない、といってくる自分もいた。熾火のようにひくくちいさく燃える言葉は、こうだ。
見てろよ。俺はこれを脚本に書いてやるぞ。――
ずっと、書き始めた頃から、恐怖がある。「もう書けなくなった」と思う日が来るんじゃないか、という恐怖だ。書くことがなくなった、書きたいことがなくなった、もうこれ以上出てこない、頭のどこからその意欲がわいてくるのか見当もつかなくなった――いろんな言い方はできる。けれど要するにいったんそう思い浮かべてしまったらそう思わないほうが不自然だとしか思えない想念のひとつだ。パニック症候群を病む人には「予期不安」という症状がある。呼吸が荒くなり、心臓の鼓動が速くなり、もう立っていられないくらいつらくなる、そういうのがパニック発作というものだが、電車やエレベーターなど閉鎖された空間にいる、というような具体的な理由と条件が備わったときに起こってきた発作が、条件のないところでも起こるようになる。「もしかしたら今発作がおこったらどうしよう」「発作が起こるような気がする」「間違いなくもうすぐ起こる」と、単なる予期が、確実な予期に感じられ、もはや避けられない予期に心の中で変化したとき、現実に発作が起こる。
「よく書けますね。」と書いたことのない人や、これから書こうとしているのだけれどハードルを高く感じている人から言われることがある。もっともな疑問だ。どうして書けるのか。なぜゼロからいち、を産めるのか。一歩目を前にしたときの人の絶望感、一歩がとても遠いと感じる絶望感はまことに自然な感覚だと思う。それを自然だと思うほど、私には、書けない不安は身近だ。調子よく書いていても、ふと我に返ってそういう目で自分を見てしまうかもしれない。いや、そう見ないようにしないといけない、と考えることがある。いや、そう考えること自体、ふと我に返る前兆かもしれないから、急いで頭を振って逃れなくちゃいけない。
「書く」ということは、そういう書けないだろうという「予期」に囚われないで済む特殊な鈍感さを続ける、ということかもしれない。「予期」から自由でいられるコツを身に着けていないと、今のこの一秒後からでも即座に書けなくなる。
そのコツはなにか。私は、そんなふうに書けなくなった友人を何人か知っていた。学生時代に、私より数か月、数年早く書き始めた劇作家の卵を。彼らを見ていたら書けなくなる私の未来は確実なもののように思えた。だけど励ますように、そしてすがるように言い聞かせた私自身への励ましは、私は反体制派なんだから書くことは残るよ、というセリフだった。
なんて粗雑な分類だろう。固くてレッテル貼りそのものの教条的な自己矜持、決めつけに近くて意固地で狭い信条だ、と笑われるだろう。確かにそうだ。だけど、けっこう凄みをもって迫ってくる「予期」の感覚を押しのけるには、もう逃げてばかりでは済まない。直面して、「じゃ私は書けないのか。書けなくなるのか。」を自問自答するほかなくなった。その時、闇の中に一条の光、という表現は陳腐だけれど、まさにそんな様子で、私に見える光は、この意地のことばだった。劇作家だなどと自己紹介できない大学生ふぜいが、しかし本気でそのことばを握しめていた。その後いくつか戯曲賞をもらって、さあ、少しは注目されるぞ、とすくむ私が握りしめたのもその言葉だ。
書くことがなくなる、ということは私にはきっとない。なぜなら、きっと世の中は私が死ぬまでずっとどこか理不尽だろうから。理不尽のないすばらしい社会が現れるというようなことはないはずだから。私はきっと中学生の時の猛烈ないじめられっこの体験以来、疎外される人に感情移入してしまう。自分のことのように怒りがわく。理不尽に傷つけてくる連中、社会、多数派の無邪気な横暴に憤る神経はもう生涯眠らないだろうと思う。そこには自信がある。おかしな自信で困ってしまうけれど、しかたない。
むしろ私に書くことがなくなる日が来るように祈りたい。その幸福を私は望もう。だけど、いまは、それどころじゃない。
見てろよ。俺はこれを脚本に書いてやるぞ。――
私は、四十年後の今もまた、この意地に救われた。励ましてくれる人もいて、おかげで書けた。そして、書くことによってますますこの国の中で疎外されていく予感もあって、だからこそ、連帯を求めて孤立を恐れず、と言い聞かせているのが今だ。そんな相変わらずの私のぎりぎりの創作が、年明けの1月2月、東京、大阪、北九州で上演される。うずめ劇場『ニッポン人は亡命する』だ。脚本の文字から立ち上がった役者たちの動きはいったいどんな時間をつくるのか、期待と不安とで今はいっぱいだ。(劇作家 公認心理師 鈴江俊郎)

 


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