玉川和子さんに聞く戦中戦後の暮らし

今日は開戦記念日。1941年(昭和16年)12月8日日本軍がハワイの真珠湾にあるアメリカ軍基地を奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まりました。終戦の日に比べて特集が組まれることが少ない印象の開戦の日ですが、当時の暮らしを京都文教短期大学名誉教授玉川和子さん(92歳)に聞きました。

画像なし開戦の頃の日本はどんな雰囲気でしたか?

まだ小学生だったので、開戦についてはあまり分かりませんでしたが、前年の1940年(昭和15年)は「紀元二千六百年」で国中が浮かれていました。神武天皇即位紀元2600年を祝う奉祝国民歌『紀元二千六百年』が流行り、京都市内の各小学校が歌に合わせた踊りを習って、私は上京区でしたが、行政区ごとの発表会がありました。翌年もまだのん気だったと思います。

「紀元二千六百年」の頃はみんな良い着物を着て浮かれていたのが、やがてもんぺや国民服になって行くのですが、「シンガポール陥落」といった様な報道ばかりだったので、日本は勝ち続けていると思っていました。うちは軍隊に商品を納入していた商売柄、お米にはそれほど困らなかったのですが、小学生の時にごはんの入ったお弁当を持って行ったら取られた記憶があるので、徐々に生活は厳しくなっていた様に思います。

画像なし戦時中や戦後のお正月はどの様にしていましたか?

開戦からすぐのお正月はまだ普通に過ごしていました。でも、やがて物がなくなり、京都でも神棚や床の間に鏡餅を飾る習慣のある家では、陶器の鏡餅を飾る所がありました。今はプラスチックの鏡餅の中に小餅が入っていますが、陶器の鏡餅の中は空っぽでした。それでもお餅の配給は少しだけあった様に思います。「縮小、縮小」と言われて統制され、派手なことをすると町内から怒られたので、正月飾りはしませんでした。ちなみにお雑煮を作るための湯を沸かす火を最初につけるのは男の人の役目だと言われていました。普段は女性が家事をしたので、お正月は女性を労って男性がお雑煮を作る家もありました。
お正月には服や下着を新しくする習慣があり、何か欲しいものがあっても「お正月まで辛抱せい」と言われ、新年に目が覚めたら枕元に新しいものが置いてありました。靴が売ってないので、戦後生まれの弟に母がつっかけを買って置いていたのを憶えています。戦争中は靴も配給で、購入券がクラスに2~3枚しか来ず、先生がくじ引きで決めたりして、草履や下駄で通学していた人もありました。「ゴムが南の国から来ないのでゴム靴はない」と言われ、革靴はみんな軍隊に行き、わらじの編み方を学校で習ったりしました。なんでも全て軍隊優先でした。

画像なし弟さんは戦後生まれとのこと、そうした状況は戦後も続いたのですか?

寧ろ戦後の方が生活は大変で、闇市で倍ほどの値段で物資を買ったりしていました。闇市は怖い所と言われたので私は行ったことがありませんが、京都では七条に闇市があったと聞きます。お金をいくら持っていても一世帯あたり使える金額が統制され、使えるお金には証紙という切手の様なものを貼って使うのですが、闇市に行くと、その証紙が売られていたそうです。頻繁に停電したので母が闇市でロウソクを入手したら、外側は蝋で中は水。火を点けたらバチバチと消え、中から水が出て来ました。母も直接行ったのではなく、知り合いのツテを使って買って来てもらったのだと思います。とにかく闇市には何でも売っていると言われました。

玉川和子さんに聞く終戦の話はこちらから

■玉川和子(たまがわ・かずこ)
1954年京都府立大学卒。京都文教短期大学名誉教授。社団法人京都府栄養士会元会長。


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