大島青松園に行った

骨になっても故郷に戻ることのできなかった1500柱近くのお骨が納められる納骨堂。完全な離島という点が入所者をより孤立させ、ここ大島青松園では納骨堂にお骨が収められている割合が他の療養所に比べて高いという。

認知症の父の部屋はゴミ屋敷のようになっている。
つまようじとか、チラシとか、靴下とか、いつのだかわからないお菓子とか、永遠に見ないだろうビデオ(VHS)とか、どっかのトイレから大量に持ち帰った手を拭く紙とか。
全部捨てちゃえばいいのにと私は思う。
ところがこれらは、父にとっては全て、ゴミではない。散らかってるのは自覚してるようだけど、全部必要物なので、決して片されることがないのである。
父だけでなく飼い猫も、不潔きわまるこの部屋で、気持ちよさそうに過ごしている。
でも私はダメ。この部屋にはできるだけ息をしないようにして入る。顔をしかめて。

我国に於きましては、此癩病患者と云ふものが、或は神社、仏閣、或は公園等に徘徊致しまして、其病毒を伝播するの虞が有のみ成ず、又地方に於きましては、随分是等の患者が群集の目に触れます所に徘徊致しまするは外観上甚厭ふべきことであらうと思ひまする

国立療養所大島青松園。島には「屋島の戦い」に敗れた平家の「墓標」として植えられたと伝えられる松が今も立っている。

明治42年、帝国議会に「癩予防に関する法律案」が提出され、政府委員吉原三郎氏(内務次官)はその説明のためにこう述べた。人間を我国のゴミとみなすも同然の恐ろしい法律は議会を通過し、同年4月、施行、各地に国立療養所が開設され、患者収容が始まった。

9月末、私はその療養所の一つ、瀬戸内海に浮かぶ離島にある「大島青松園」というところを娘と訪ねた。
明治42年に開かれたこの園には、今でもまだ30名ほどの人が入所している。
海に囲まれた、景色がとってもきれいなところだ。
無料の官用船で桟橋に降り立ち、受付の人から資料をもらう。
そしてまず社会交流館という建物で、この閉ざされた島でどんなことがあったのか、入所者たちがどんな風に生きたのか、を伝える、詳しく膨大な展示を見た。

 

瀬戸大橋ができて本州と四国が結ばれても、この大島に橋はかからず、日に5便、この小さな官有船が就航する。この日は私たち以外は工事の人と、職員らしき人だけが乗船した。

「昭和初期まで伝馬船にのせてロープでつないだ本船が引っぱっていった」
「子どもを持っても強制堕胎を余儀なくされた」
「軽症の患者が重症の患者を看護し重労働までして、療養所の運営を支えてきた。…無理を承知で働いたあげく、病状を悪化させ、手足が不自由になり失明した患者もいた」
「火葬、土工、看護、食事運搬など、療養者が行うものとしては考えられないような作業が多くあった」
「職員地区と患者地区とに分れており、それぞれ「無毒地帯」「有毒地帯」と呼ばれていた。」
(展示より)

「らい予防法」は1996年にようやく廃止された。
隔離や断種の政策が間違っていたことを本当にようやく国が認め、謝罪。全国にその負の歴史を正しく伝える啓発のための資料館等が建てられるようになり、この館もその一つ。
入所者の「生」を主軸に据えた展示はすばらしくて、圧倒され、思わず長居してしまう。入所者が「不自由な手で制作した」というアート作品とかも、素晴らしかった。
ただ、なんかこの建物はきれいすぎて、そして「社会交流館」て名前なのに、交流どころか2時間いても誰ひとりにも会わなかったのも衝撃だった。
塵一つ落ちてない床、ほこり一つついてない壁や作品。入所者の自費出版物とかもたくさん置いてる図書室に行っても誰もいなくて、大きな椅子に1人で座って本を眺め、入所者が詠んだこんな短歌を書き移す。

葬列の人すぎゆきてまたもとの浜辺にかへる松原のみち
(歌集「冬潮」 綾井譲)

ピーク時は700名くらいも入所していて、ギュー詰めだったこの療養所。
特効薬ができ、隔離が必要な病気でないことがわかり、社会復帰する人もあらわれ、新たに入所する人がなくなったのはよいことだけど、それでもまだここには、入所者がいる。
病気はもう治ってるけど、身体に障害があったり、迎えてくれる家族がなかったりで、島外での暮らしを諦めるしかなかった人たち。2022年40人、2023年37人、2024年30人。パンフレットに「園内は、あたかも村落の様」とあるけど、こんな先細りの寂しい村がほかにあるだろうか。

大島から瀬戸内海をのぞむ。青い空、青い海、景色は抜群!

その一方で、学習や交流に島を訪れる人は増え、新たな施設が建ち、見学者用にこの園はきれいに整備された。
見学者は見学者用に整備された場所を見て回れる。でも、社会交流館でも、売店でも、郵便局でも、海沿いの散歩道でも、私たちが入所者に会うことはなかった。見学できる場所は限られていて、「入所者居住区域」への立ち入りは許されないのだ。
見世物ではないのでそれは当然のことだ。でも、「入所者居住区域」と書かれべっとり黒塗りされた案内図を見ながら、なんだか複雑な気持ちになる。
彼らのいる区域と、この見学者用の区域と、一体どっちが「社会」なのか? 私は一体なにを見に来たんだろうか??

らい予防法は、「英国大使館前の壮麗美を誇る門前近く」で、「重症にして且つ醜悪なる一人の結節癩患者」(『大島療養所二十五年史』)が行き倒れになったことが大きなきっかけとなり、制定に向かって動き出した。日清戦争に勝利し、列強の仲間入りをしたい日本は、多く訪れるようになった欧米人の目から、患者の姿を見えないようにしたかったそうだ。
外から来る人の目を気にしての整備・美化。
それはお客さんが来る前は家を掃除。そんな日常の営みとなんだか似てる。
ごく当たり前の日常の常識。その延長線上に、「排除」がある。
それはすごく怖いことだ。

戦後、上野で浮浪生活をしていた戦争孤児たちは「街のゴミ」として狩り込みを受け、リヤカーとかに乗せられて、鉄格子の収容所に押し込まれたそうだ。

2020年には、ボランティアでごみ拾いをしていた男が、幡ヶ谷のバス停に座っていたホームレス女性を「邪魔だから」と殴り、殺害。
東京五輪の前には、会場近くの古い団地が取り壊され、公園や路上で野宿者たちが立ち退きにあった。

介護用ベッドを置くために、父のいない隙に、私は母と、床に散らばったいろんな「ゴミ」をよく見もせずにガシガシ捨てた。
その行為は、もしかしたら、恐ろしいことの入口であったのかもしれない。
ヒトはなんで、「キレイ」を目指してしまうんだろう。

参考文献:
『大島療養所二十五年史』、大島療養所、1935年
『閉ざされた島の昭和史 国立療養所大島青松園 入園者自治会五十年史』、大島青松園入園者自治会、1981年
『知っていますか? ハンセン病と人権 一問一答』、ハンセン病と人権を考える会、2000年
「大島青松園案内」(パンフ)、国立療養所大島青松園
「国立療養所大島青松園 社会交流会館」(パンフ)、国立療養所大島青松園福祉室
「大島マップ」(パンフ)、高松市

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塔島ひろみ<詩人・ミニコミ誌「車掌」編集長>
『ユリイカ』1984年度新鋭詩人。1987年ミニコミ「車掌」創刊。編集長として現在も発行を続ける。著書に『楽しい〔つづり方〕教室』(出版研)『鈴木の人』(洋泉社)など。東京大学大学院経済学研究科にて非常勤で事務職を務める。


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