『井戸』という名前の同人誌をはじめます

イラスト:秋山ののの

同人誌の活動を始めました。
とは言っても、人生でいくつめの同人誌でしょうか、知り合いに語りかけて、言い出しっぺになって、たくさん売っていく気のある同人誌、全然売っていく気などない同人誌……合わせると、四捨五入すると二けたに達する同人誌歴を誇る私です。
今回のは売っていく気のない同人誌です。だけどやる気がないのか、というとそれはまあいつだってそうですが、売る気の有無は、意気の高低に関係しないのです。意気は高いのです。表現の場を確立する。と言えば、なんだか抽象的でかっこいいのですが、実際のところ、〆切で自分を縛りたいのです。〆切がある、誰かに「原稿まだですか」「原稿そろそろお願いしますよ」と迫られるというのは苦痛です。胃がもたれる。なんだか安眠できない。しかし、その苦痛を乗り越えて原稿を提出し終えた時の爽快感は、なんともこたえられないものです。そして、あとに残る原稿は、苦悩、七転八倒の跡も明白で、たまらなく感情移入ができるいとおしい宝に感じます。こんな趣味のいい趣味はほかにないのじゃないでしょうか。
何回も何回も〆切に迫られて苦しんで書くうちに、書くこと自体に確かに少しは慣れてきます。むしろそこは力を抜いたほうが力感がよく伝わるというポイント、単に淡々と文を並べたほうが迫力が出るよと気づくコツ、そんな少しだけれど確実に積もっていく「かんどころ」が残ります。苦しんだ分スキルが積みあがる、というのは、長い間脚本の締め切りに苦しんできた自分には身に染みている技術獲得の原則です。そういう自己を向上させるための場、なのです。
人に締め切りを迫ると、その言ってるおまえさんはどうなんだ、という反論が返ってきそうで、脳内で怖い編集者がいつのまにか出現し、自分に迫ってきます。それもまたよい。
劇作家、劇作家と自分では言いたくない書く人、もはや俳優ですと言ってもいいような書く人、そんな人に声をかけました。私がその力量を認めている関西人、北陸人です。力があっても世に認められるかどうかというのは全く時の運と言っていいようなものがあるというのが私のこの世界への観察ですが、まさにそういうメンバーに脚本、エッセイ、小説を書け、と迫る同人誌です。そしてそこに私は脚本、小説を書くように迫られます。力量の充実したメンバーがそろうのですから、恥ずかしいものは出せません。それを一か月一回PDFの形で発行しよう、という試みです。11月に第一号。それが少なくとも私の農閑期の半年は続きます。そしてまた来年の農閑期に再開され、そして続く……そんな見込みです。
売るのか?売りません。売りたくなるかどうかは、成り行きに任せよう。売れるかどうかなど気にしないで、いいものを創りだそう。いいものを書いたところで売れないことは往々にしてあります。脚本なんてまるっきりそうです。悔しいからなんとかして売れるものってなんだろう、って探りたくなるのは人の情。だけどそういう探索活動にばかり時間と関心領域を奪われるっていうのは本末転倒ではないか。いいものを産んで、けれどそれが世に埋もれていく。それもすてきな絵じゃないか。そういうことを了解しあう仲間がいてさみしい創作活動を共有する、ということだけでもあれば、この世界はすてたものじゃないんじゃないの?
いやいや売れるかどうか、ってこと、貨幣に置き換える価値を周囲が認めるかどうか、が、少なくとも独善的になるのを防ぐ歯止めの装置じゃないの?客観的な秤、というものではないの?そこは謙虚に売っていこうよ――そういう論者がいるのも知ってます。理解もします。しかし。もうその秤の性能の鈍さを知った我々は、その秤の役割を、しっかり自覚して自分の中に備える覚悟を持つほうが合理的だ、と決めているところがあるのです。多くの人に読んでもらって評価をもらう、そして厳しく批判ももらって研鑽に役立てる――それはもちろん王道ですが、あえて我々は閉じようと思っています。今の段階では。創作を温めあうのです。〆切が迫らないとなかなか書かない力ある人たちが、せめて書くように仕向ける。放置すれば「自分褒め」ではなく自虐、自己批判ばかりつのらせて落ち込む癖のある作家たちだと承知しているのだから、むしろ今は周囲に開いて無数の傷を負う闘いに消耗するより、あえて閉じることの方が成果に近い道じゃないか、と。書く仲間の輪の中での相互論評の刺激をあてにすることにとどめよう、と。
第一回の会議で同人誌の名前を決めました。「井戸」。なんて地味な名前でしょう。なんてメジャーを目指す気のない謙虚なネイミングでしょうか。掘ろう、ってことだろうか。創作の泉?いや泉は放置していてもどくどく湧いてくる水源のことですから、違います。井戸は一生懸命掘っていかないと出てこない水源のこと。しかも出るかどうかあてもなく、いやある程度目算はあっても掘ってみないとわからない、確実なことは言えない掘削作業にいどむってことです。掘り上げた後も、井戸はあまり人目にはつきません。そこが井戸なんだよ、と言われないと今どきの井戸は昔の井戸のような目立ち方はしません。井戸をほめる、井戸を賛美する言動など世間ではあまり見たことはありません。セクシーなダンスなら誰もが褒めますが、我々は井戸なのです。すばらしい井戸になれたとしても、まあせいぜい井戸なのです。なんてこった。そんなものを目指すことを合意した、今4人の仲間たちがこれから進んでいきます。
世界を変えるために、まず私たちが変わろう。いいものってなんだろう。それを考え考え、人と自分の心を見つめていこう。「明日のハナコ」事件を知る私の周辺の人間たちが、世界をかえたい、このままではいけない、そう思ったときに産むべきものはなにか。それを突き詰めて考えたり、突き詰めて考えていなかったりするぼんやりした時間に、どこか共通してすてきな表現を産む自分にあこがれる。創作、表現というものが人の心を撃つなら、撃つのだろうから、そこから世界に働きかけることは全く原則的な動き方ではないか。私はそういうことを考えました。そういう活動が、ここから始まってます。(劇作家 公認心理士 鈴江俊郎)


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