葛飾のあちこちで進められる再開発は、古くからのコミュニティを破壊して、大企業たちが実権を握る、機能的で効率よい新しい「まち」をつくるものだ。
そこに建つタワマンは高額所得者向けのものであり、立ち退かされたほとんどの人は、そこに住まない(住めない)。
「区内には別の場所に低家賃の住居もあるので、そういう人(高い家賃を払えない立ち退き者)はそういうところに住んで下さい」と、区長はある日の意見交換会で答弁した。
新しくできたきれいな「まち」を訪れた人に、区外からタワマンに引越してきた人に、立ち退かされた人が住む「別の場所の低家賃の住居」は見えないだろう。本当のものは、不便なところに、見えないところに、本当はある。
瀬戸内海に浮かぶ香川県坂出市「与島」。
1988年に開通した瀬戸大橋は、この島を「脚」として、というか脚の「踏み台」として、島の真上を通過する。
島はかつて与島石の産地として知られ、主産業は採石だった。
が、工事に伴い石材業者は石を取る権利を放棄し廃業。石を運んでいた海運業者も仕事をなくした。
観光の島への転換がはかられ、数百台もの車が駐車できるパークウェイ、遊歩道や園地もできて橋開通後一時はにぎわったが、その後観光客はめっきり減った。
島に働き盛りの人はいなくなり、小学校も中学校も廃校となった。
9月末、瀬戸大橋を渡って高松へ行った。
娘との旅行の目的地は四国本島ではなく瀬戸内海に浮かぶ大島と直島。
なんだけど、大島には、四国の高松からしか船便がないので、岡山からマリンライナーという電車に乗って高松へ。
電車で海の上を初めて走る。その海の色はすごくきれいで、波は穏やか。点在する島々の美しい風景が右にも左にも続いてて、ワクワクした。ときどき陸地の上を走りそのたび「着いたかな?」と思うとまた海に出る。私はなにも知らなかった。
けどその3日後、直島で訪れたギャラリーで、ふとこんな写真集を見つけてしまった。
「橋脚になった島 1972-2004 高田昭雄写真集」
手に取ってみる。
「2004 与島」と題する最初の写真。
空地のような公園でゲートボールをする島の人たち。
麦わら帽子をかぶり、作業服姿のまま、幾人かは木のベンチにすわり、穏やかな秋晴れ(推測)の下、静かな時間が流れている。
その彼らの後ろ、公園の隣りには巨大な橋脚が何本も建ち、それが支える橋が、頭上はるか高くに、裏側を見せながら聳えている。
その写真の隣りに、地図があった。
ゆるやかな曲線で岡山側から四国にのびる鉄道線路と自動車道は、いくつかの島々の真上を通っていた。
私は愕然としてしまった。
ページをめくる。
そこには瀬戸大橋の「足台」として使われた島々の風景、そこでの暮らしが、人々の顔が、生き生きと映し出されていたのだった。橋の建設が始まる前の1972年から、橋が開通したあとの2004年までの島の写真。
私が踏んづけてしまった島々の写真。
東京へ戻ってからこの本を買った。
「1972 櫃石島」「1979 櫃石島」など、櫃石島の写真が多い。揺れる船上の若い漁師。出港する船を見送る女子ども。井戸端風景、島の例祭・・・。
櫃石島は若い漁師でないと出来ないタイラギの潜水漁をしていた。私はその中の一隻の船に乗せてもらい撮影を始めた。1972年の暮れのことである。
気候温暖な島には、穏やかで静かな生活があった。1980年に入って大橋の工事が始まり、今まで静かだった島は島外からの多くの工事関係者が入ってきてブルドーザーやダンプカーで騒然となった。また漁業補償・工事に伴う地代等、島の中はお金の話でもちきりだった。(写真集より)
東京からその日のうちに着けるのかな?と不安だった高松に、岡山から船にも乗らず1時間で到着でき、その日のうちに屋島山頂まで行って来れた。
でも、足台となった有人島である岩黒島、櫃石島、与島の3島には、今、子どもがいない。
「クマゼミの島」と呼ばれる岩黒島のループ橋の側壁には、岩黒島小・中学校の校長がデザインしたクマゼミの絵が彫刻されたそうである。
与島では工事に先立つ安全祈願祭のセレモニーで、
「瀬戸大橋は私たちの橋」「夢をかなえよう」
小学校の児童たちがそんな願い事を書いた小石を、橋脚のケーソン(型枠)に投げ入れたそうだ。
櫃石島では、橋台の一つに島の幼稚園・小中学校に在籍した64名の子どもの手形が焼きつけられた。
それはすべて、橋建設が益をもたらさない島民の懐柔策だった。
そしてその3島にあった小・中学校はいま、廃校または休校している。
子どもがいないから。
橋脚のケーソンに願い石を投げ入れた子ども、橋台に手形を焼きつけた子ども、その誰もが、自分の生まれたその島で子育てをする人生を選ばなかった。ということだ。
騒音がひどいこれら過疎の島々には、でも、今も漁業があり、漁師がいる。
与島町人口54人、岩黒48人、櫃石133人。(令和6年10月現在(坂出市ホームページ))
青い海は島を囲み、そして、これらの人々が今日も毎日ごはん食べ、話し、笑い、ときどきゲートボールしたりしながら、暮らしている。
島の上を走る電車や車に乗る人たちには見えないところで、暮らしている。
そしてその暮らしの方が、直島で夜に見た、海の奥、長く伸びたライトアップされた瀬戸大橋より、ずっと本当のもので、なんかずっと、生命だ。
東京にいては見えないもの。瀬戸大橋を渡っても見えないもの。写真集を見ても見えない、決して写真に写らないもの。
そんなものをこの写真集は写している。
本当のもの、本当のことは、見えないところにある。
そう感じた。
参考文献
『高田昭雄写真集 橋脚になった島 1972ー2004』 2005年、アトリエぶどうぱん社
『瀬戸大橋全記録』 1988年、山陽新聞社
———————————————————————
塔島ひろみ<詩人・ミニコミ誌「車掌」編集長>
『ユリイカ』1984年度新鋭詩人。1987年ミニコミ「車掌」創刊。編集長として現在も発行を続ける。著書に『楽しい〔つづり方〕教室』(出版研)『鈴木の人』(洋泉社)など。東京大学大学院経済学研究科にて非常勤で事務職を務める。