福井県の高校演劇祭で「明日のハナコ」という作品が排除される事件があって以降、まだまだしつこく全国でそれを上演する運動は続いている。
ある大学教授は、三年も続けてこの台本を素材に授業をされている。台本を読み、その後の事件の経緯を立場をかえて当事者の主張のもとはなにか想像し、議論し、その訓練をするような「民主主義を体感する」一年生前期の実習だ。女子大の一年生はつい前年まで高校生だったから、演劇部員が悲しい目にあったこの事件は意外と身近だ。しかしそれにしても、大人たちが掲げる「生徒たちのために」排除してあげる、という論理にまるめこまれる学生もいるし、表現の自由なんてことは生まれて初めて考えます、てな学生もいる。前期の終わりにはあなたの脳内ではこの問題はどのようにとらえられていますか?という論文を書かされる。
先生はオルグする活動家みたいな押し付けをしないように心がけていらっしゃる。片方の意見に誘導するようなことは思考を育てない、と考えておられるから、論文の内容はまことに多様で、その多様さにどうやら一喜一憂されているらしい。
三年目の今年は、学生たちに学内で上演をさせてみたらしい。
学生たちは、やるからにはいいものにしたい欲に駆られる。この台本がなぜ福井県では排除されたのか、という知的な思考以前に、セリフを自分が与えられてしまった戸惑い、セリフってどうやって発すればいいのか、という混乱した感情、どうやっても上手には言えていない、動けていないという自己嫌悪、そういうものにつかまってもう大変な目にあってしまう。知的に表現の自由というものについて思考してみよう、という授業のはずだったのに、なんだかずいぶん原初的な苦しみに、前期の終わりには圧倒されてしまう体験をしてしまったらしい。こんなのでいいのか?人文系の授業なのに。
私は断固支持したいと思った。この授業の意図を。これまでの授業のなかでは最も高い知的レベルまで学生は達したのではないか、と私は思う。つまり、排除された高校生とほぼおなじ生理的な感覚を、大学生たちは手に入れたのだ。こういう生理状態の中で、客を前にしたいやな緊張の中で、そして追い詰められた時間を過ぎた後の達成感を経て、そのあとで衝撃的な「排除される」時間がやってきた、ということが身体の感覚として理解できたはずだ。
セリフというのは「考えて、理解して、発する」ものではない。「やむを得ず引き受けて、どう理解していいか戸惑ったままとりあえず口から出してみて、そしたら自分の声が自分の耳に入ってきて、そしたら自分は感じてしまった」というように体験するものだ。自分ののどから発せられた自分の音のふるえが、自分の胸にもう一回逆輸入される製品のようにやってくる。もはや自分の声なのに聞きなじんだ声ではなくなった他人の声。他人の思考だったはずが、自分ののどを通って自分の耳に届いた瞬間、自分の思考の一部と化しているこの不思議な概念の変化。…役者が台本をひきうける、というのはこういう摩訶不思議なプロセスのことだ。
学生たちはとてもいい体験をしたはずだと思う。前期最後の論文はあいかわらず多様で、先生は今年も一喜一憂させられたようだけれど、こんな豊かな授業がほかにあるだろうか。
今どきの大学一年生はまことに非政治的な存在だ。政治の問題を友と語った経験などほぼ持っていない。教師や親、塾の講師など誰でもいいが大人になにか熱く,あるいは暑苦しく語られて迫られた時間などほぼ持ったことがない。非政治的な存在などないはずだが、彼らのありさまを「非政治的」と呼ぶほかないような感触を持つことがある。乳児の手をさわったときのような感覚。危なっかしく無防備な、未知の世界にひらかれたやわらかな存在。政治的な概念、あらゆる志向性、そういうものを経験したことのない圧倒的な弱さ。子供はとても大切にされ、子供に偏った刺激を与えたかどでクレームを受けるようなことを子供関係者は極力避ける。おそろしくて手が出せないような状態に大人たちはお互いを監視しあっている。
私が体験した「明日のハナコ」での福井県の教員たちのありさまはまさにそういう小心者たちの様子だった。権力者や親たち、関係者たちの懸念を忖度しつづけている、強度に忖度していると言ってもいいような怯えた日常がそこにあった。そんな中で日々を過ごす高校生たちは18歳で選挙権まで手に入れてしまう。
そんな18歳が触れたことのない原発の問題をセリフで言わされ、身体を通して考えるこんな取り組みを、私は断固支持したいと思った。演劇はとてもいい。四の五の言ってるより早く、身体で言語化しにくいものまで体得してしまう。彼らが戸惑っているその現場に、私も立ち会いたい、と強く思った。(劇作家 公認心理士 鈴江俊郎)
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《イワントモリ 第2回公演「明日のハナコ」上演情報》
9月27日(金)~29日(日)
愛媛・東温アートヴィレッジセンター アトリエNEST
10月5日(土)・6日(日)
高知・ミニシアター蛸蔵
10月12日(土)・13日(日)
愛媛・旭館
キャスト:岩渕敏司 / 森田祐吏
https://iwantomori.com/