玉川和子さんに聞く終戦の話

戦後79年、戦争を知らない日本人が殆どになりました。80年近く戦争がなかった訳ですから、そのこと自体は喜ぶべきですが、近年は歴史修正主義の台頭など危うさも見られます。そこで「カナリア倶楽部」では、市井の人々の戦争体験を伺うことにしました。京都文教短期大学名誉教授玉川和子さん(92歳)に79年前の8月15日のこと、戦時下のことを聞きました。

画像なし1945年(昭和20年)8月15日は、どこで何をしていましたか?

当時は光華高等女学校の2年生で、学徒動員先(※)の学校で玉音放送を聞きました。西京極にあった学校の体育館が日新電機の工場になって、飛行機のメーターの部品を作っていたのです。その日、天皇陛下から重大な玉音があると通達があり、12時に校庭に集められて聞いたのですが、昔のラジオなので言葉がはっきり聞こえず、何を話しておられるのか全くわかりませんでした。先生から「戦争に負けたのだ。明日からこの工場は閉鎖する」と告げられ、訳がわからないまま翌日から学校は休みになりました。

画像なし玉音放送を聞いて、どの様に感じましたか?

玉音は理解できなかったけれど、負けたという悲壮感だけがありました。あの頃は軍事教育で、「勝つ、勝つ、勝つ」と言われていましたから、負けるとは夢にも思いませんでした。伝えられる戦況も勝っているとばかり報じられ、お習字でも「撃ちてし止まむ」「欲しがりません勝つまでは」等と書かされてました。戦争に負けたのだ、あなた達は一生懸命工場で働いて来たけれど、これは軍需産業で、もうやらない、今までやって来たことは何にもならなかったのだと先生に言われて、泣き出す人もありました。

画像なし学徒動員には、いつから行っていたのですか?

その年の春からで、最初の1ケ月は日新電機で研修がありました。研修に行くと机の上に数センチの半紙が1枚置かれ、「それでこよりを作れ」と言われました。こよりはピンと立たないとダメで、斜めに捻じって行くので、元の長さより長くならないといけないのですが、各自に作らせてうまく作れるか、器用か器用でないかを見る適性検査だったのです。きれいに出来た人は「はんだ付け」と言って動線を付ける様な仕事をし、うまく出来なかった人はメーターのガラスカバーを糊付けするだけでした。私はうまくできなかったので、ガラスを貼る仕事をすることになりました。綾部の三菱まで泊りがけで学徒動員に行かされた学校もありましたが、私達は学校の体育館が工場になったので、学校に行って作業しました。動員令がかかった者は直径7センチくらいのお茶缶の様な金属片に真っ赤なキレを貼って、墨で「学」と書き、安全ピンをつけて徽章として制服に着けていました。学徒動員に行っていることは自慢でした。動員先は軍需産業なので色々な配給があり、石鹸がもらえたり、乾麺を入れたご飯がもらえたりしました。

画像なし学校はどうなりましたか?

それまで女学校2年のカリキュラムで授業が行われていましたが、戦後は中学校になり、英語は敵国語だと言われて殆ど習ってなかったのに、中学2年のカリキュラムで文法もわからないまま「嵐が丘」を読むことになりました。日本史は教科書を持って行くと、国の名前が「大日本帝国」から「日本国」に変わったので、大日本帝国と書いてある所を墨で全部直しました。「神風」などの表現も消す様に先生に言われました。

画像なし戦争で社会はどう変わりましたか?

戦前は大正ロマンでオシャレして、洋食が流行った時代でした。それが終戦の1年程前にはお米の配給も少なくなりました。動員先では稗や粟はありませんでしたが、家ではお米とセットで稗や粟の配給もありました。一番悪いのは豆かすで、油を搾った後の大豆を米に混ぜて食べるのです。コーリャン(※※)を混ぜたものもあり、満州で育った人によるとコーリャンは美味しいものだそうですが、日本に入って来るのはそういう質の良いものではありませんでした。私が十三まいりに行った時はモンペと「決戦袋」と言って頭巾を入れた袋を下げてないと電車に乗れませんでした。それで母が新品の銘仙で派手なリボンを仕立ててくれ、それをモンペの紐として結んで十三まいりに行きました。

画像なし京都の町ではどんなことがありましたか?

大きな建物の近くの家は、焼夷弾が落ちた時に留らない様に2階の天井を抜けと言われました。うちは府立医大の大きな建物が近かったので、近所の家はみんな全部2階の天井を抜きました。終戦の数日前のことです。そして広い通りを作らないと焼夷弾が落ちた時に対応できないからと五条通りや堀川通りを拡張する為、強制疎開が行われました。該当するエリアでは町内の人達が家の柱を切りに来て、みんなで紐で引っ張って家を壊すのです。町内に軍隊も入っているので、町内単位で協力してやらないといけませんでした。男の人は兵隊に行っていていないので、そうしたことは町内が責任を持ってやらないといけないとされました。いわゆる隣組です。家を壊された人は親せき、知り合いを頼って引っ越すしかなく、何の保証もなかったと聞きます。家は壊されましたが、壁の厚い蔵は人の力でそんなに簡単に倒れません。強制疎開があった所には戦後、残った蔵だけがずらっと並んでいました。

■玉川和子(たまがわ・かずこ)
1954年京都府立大学卒。京都文教短期大学名誉教授。社団法人京都府栄養士会元会長。

Wikipediaより
※学徒勤労動員または学徒動員とは、第二次世界大戦末期の1943年(昭和18年)以降に深刻な労働力不足を補うために、中等学校以上の生徒や学生が軍需産業や食料生産に動員されたことである。1945年(昭和20年)3月18日には「決戦教育措置要綱」を閣議決定。国民学校初等科以外のすべての学校において、4月から1年間の授業停止による学徒勤労総動員の体制がとられた。8月16日文部次官通牒「動員解除に関する件」により事実上の動員解除。

※※コーリャンはイネ科の穀物で、モロコシ、たかきびとも呼ばれる。日本では山間部においてご飯に混ぜる主食用として栽培され、第二次世界大戦後の食糧難の時代には一時栽培が拡大したが、コメの生産量増大によって栽培は激減した。


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