あのおじさんがいる

イラスト:秋山ののの

実は、庶民がひとりで、社会は変えられる。いや完全に変えられる、とは言わない。かなりのことはひとりでも変えられる。
大勢の人が力を合わせる活動を小さく見るのか?いやちがう。むしろそれは原則だ。原則は尊重したうえで、だ。いま、一人の力は無力だ、どうせ一人がたちあがったって、世の中大きく変わらない、……そんなつぶやきが若者を圧している、と感じるからこそ、原則の外にある現実の実際を、私は強調してもいいと思ってる。
いくつも見てきた。一人のヒラの職員がふんばってがんばってるから職場がかわってしまってる、という現場を。たとえば、劇場。市立、府立、という名の劇場。これはもう、私たち小劇場人ならたいてい避ける場所だ。無数の無意味な制限。現場の小さな必要を「前例がないから」と拒む熱意のなさ。なんとか不規則、例外、創意工夫を打ち消そうとする一分一秒ごとの裁量を否定する保身。…これがたいていの文化会館の実際だ。
なのに、それとは違う、特別な公立の劇場が。私の若き頃、関西にはいくつかあった。名のある小劇場の劇団、名もない小劇団が、毎週末そこで上演する。そこにいくとライバル劇団の制作者がなにか作業していて、緊張感のある世間話が展開する。役者もいる。舞台監督もいる。要するに小劇団の基地、という状態だ。根拠地。群れて、競う空気。情宣活動にも協力的で、力のある劇団は遠方からもそこを使いに来る。劇場自体が客を呼ぶからだ。同じ公立劇場なのにどうしてここは違うのだろう。事務所の机にいるのは公務員か、外郭団体のほぼ公務員たちなのに。…二回か三回上演すると、気づく。要するに、あの人だ。と。あのおじさんが、なんだか、この劇場に魂を与えてるのだ。ほかの三-四人はどうやらやはりやる気のない給料分も働かない普通の公務員だけど、あのおじさんだけは、あちこちの劇場でも見かける。給料のでない時間に芝居を見に行ってるみたいだ。そして、名のある劇団、名のない劇団に知り合いがいるようだ。役者としゃべってるのをよく見る。で、劇場を使ってみたら、あのおじさんに話を通すと速いのだ。そういう劇場で上演すると、終演後劇場前にあのプロデューサー、あの劇団制作者、あのライバル座長がたむろして待ち受けてる。「ちょっと飲みに行こうぜ」と待ち合わせ場所にされてる。
それは体験してみたらわかる。そのおじさん一人のふんばりが、四ー五人の公務員の重い腰を動かさせている実態があるのだ。そのおじさんは決して勢いのある声で語ったりしない。めだたないサラリーマンの恰好だから、見た目では区別がつかない。そもそもその職場になじみ、適応してなきゃ組織は動かない。
そしてそれは一か所だけではなかった。吹田××シアター、大阪市芸術××館、……そして、そういう魂のある劇場が始まる時も、実はそうなんだ、と目撃もした。精××劇場、アトリエ×研、××芸術センター……ひとりのだれかが「やりましょ。ね。なるべくね。」「作りましょ。ほらできますよ。」と静かに数年踏ん張っていると、動きは始まっていて、結果、劇場はできていた。
それは、市役所で働く職員になってもいくつも目撃した。労働組合は形の上では存在してても、実際機能していない職場というのはある。多い。深刻な問題が発生していても当局の側の指示でしかことが動かない職場。当局ルートでの話し合いしか職員が期待しない職場。けれど私が初めて就職して配属された職場は、そうではなかった。「職場委員会」の場では、たいていのおじさんが発言していた。つらい問題がたくさんある職場だったけれど、何回も当局者と対面する全員参加の団体交渉があった。新人職員は向かいの机のおじさんに「ここは特別やで。他もこうやと思ったらいかんよ」と耳打ちされた。確かに、職員生活が長くなると、たいていの職場では決定事項は上から下りてくるもので、そこに改めて話し合いなど職員の中では行われないのが普通だ、と知った。形式的に労働組合での話し合いはあるけれど、多くの人はそこでも発言しない。機能していない労働組合は、主導権握ってるのが共産党だろうが社会党だろうが、かわりない。ヒラ職員が声をあげずに、組合の役員の言い分、組合本部からの指示だけが通る場所だ。
私の体験したその職場は百名ほどのまとまりだったが、そこで三年過ごしているうちに、誰がこの動きを支えているのか、いざとなったら誰が動くのか、怒るのか、苦しい当事者に話しかけるのか、その第一歩は誰か、明らかに見えた。あのおじさんだ。いつもそのおじさんは一歩目が早くて、最後の一歩まで動きがしつこい。彼も見た目ではなんにも見分けのつかない、職場になじんだサラリーマンでしかなかった。
二つ上の役職くらいの仕事はできる。誰かが若造の私に教えてくれた。ヒラなら係長の上の課長級の決定力はもてる。課長なら部長級。部長なら、……市の決定を左右できる。それも、私は劇場をつくる動きの過程で目撃した。
それはだけど、ほんとにそうだったのか?……客観的に証拠をあげてそうだと証明して見せろよ、一人の力でそこまでことを動かせるなんて嘘だろ、と悲しき若者に問い詰められると私は弱い。だけど、体感はしたのだ。問題が起こったり、ことを起こしたり、当事者になったりしたとき、この職場の誰に話を持って行ったら実際にことが動くのか。それは正式の職階者では実はなかったりする。「あのおじさん」なのだ。彼に、職場の机じゃなくて、トイレの前で、とか、通りかかった廊下で、とか、そういういいかげんな場所で話を聞いてもらったほうが話が実際動く。この人がキイパーソンなのだ。そういう体感は、「魂の感じられる」職場にはある。たった一人の効力。その人が異動して出ていったら、その職場の魂は失われた、って感じることになるから、それが証明だ。
「魂の感じられる」ってどういうことだ。…これも説明がむつかしい。前例のない、小さくても問題の本当のところに切り込む動きが進行中の、ってことだろうか。
証拠のない話ばかりで申し訳ない。だけど、二十年から三十年前にこの身で体験した話だ。今も日本のあちこちに「あのおじさん」はいるはずだ。世界は、変えられるんだよ、君たち。(劇作家 公認心理士 鈴江俊郎)


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