脚本を書いた数年後に、その作品を上演したい、という依頼をいただくことがある。たいてい自分が脚本を書くのは、自分とその友人が出演する企画に向けて、よっこらせ、と腰を上げて、その特定の友人たちの様子にぴったりくるように書くのだ。あて書きというのだが、彼が話すためにセリフを書くので、そして私が口にするためのことばをひねくりだすので、話し方の癖、体の動かし方の特徴、そんなものももちろんありありと脳内では何度もシミュレーションを繰り返したその前提の上で、ことばが生み出されることになる。
それを、全く見も知らぬ人たちが上演する、ということになるのだから、どうしても戸惑い、というか、不安というものが私には湧く。果たして、あの言葉は成り立つのだろうかーー
彼の生活歴があって、その上でその単語は特別なニュアンスが生まれる。私は彼をよく知っているから、その言葉がどういうニュアンスを抱えて口から発出されることになるか、それが発出されることによって全身にどういう緊張が走り、あるいは弛緩が全身を支配するのか、どことなく空想が事前に走る。そのニュアンスが、おそらくないことばというものはどういうものなのか、――不安だ。
しかし、たいていは裏切られる。特に明確に体験するのは、高校生など若者が台本を演じてくれる場合だ。やみくもな存在感というのか、エネルギーというのか、それらが言葉をのみこんでしまう、くるみこんでしまう、もはや台本のことばがあっちであってもこっちでもあっても大きな違いはなかったかのように、役者の存在が前に来る。その場を支配する。相手役とぶつかりあい、ののしりあって空間と時間を変容させてしまう。もとは私が書いたあの初演の人たちのことばだった……などということは全く考える余地もなく、その人たちのことばにされてしまっている。ふと時たま、我に返って、そのことばを生み出した時の稽古場の小さなドアノブのことを思い出したりするときの違和感が、むしろ自分には不思議な感覚となってしまう。
若き役者たちは、きっと、そこにある単語、言葉の並びを勝手に自分の体験したあの時、あいつと一緒に見た、聞いたあのものとして、自分の物語を生きるのだ。それはもはや初演の役者たちが生きた物語とは違う。単語は同じでも、意味しているものが違うのだから、それの集積が十分、二十分と重なるとそれはまるでちがう物事の流れがそこには立ち現れることになる。
きっと若き役者には、迷いがないのだ。迷いなく、言葉を手掛かりにして、自分のことを表出していく。悪く言うと原作者に敬意がない。年長者の表現者にはおそらく初演者たちの苦労や、劇作家の創作過程への敬意があって、それは慎重さにつながり、「言葉の意味はこうなのではないか」と自分のことよりも、すでに産み出された現場の思考に自分を適応させようとするような作業が生まれてしまうのではないか。だからそこに提示されるのは自分ではないから、ぎこちない。かたい。あるいは「正しそうな」表現として完成したことにされてるからエネルギーに乏しい。表現に「正しい」とか「正解」とかはないのに、これはきっと日本の昭和の、いや今でも続く日本の国語教育を優秀に通過した人たちほど「作者の意図はなにか」などという思索にとらわれて自由になれないのだろう。
これが、素晴らしく力量のある演出家になると、逆にぐるっとまわって創作は幼い様子に戻ってくる。台本の扱いは自由になる。大人が持つ慎重さなど放棄して、幼児のような自由さで、もはや台本を軽視するかのような勝手な発想で、役者はセリフを発し、舞台美術は台本に根拠を探せないような壁、階段、曲線や混とんを見せる。知性のある人がやっているのだから、要するにあえて「いったん捨てよう」と意識した作業だ。「敬意を払ってあえて自分のものとして扱う」心構えの切り替え、覚悟、態度の開き直り、というようなものだ。幼い闊達さ、に近い。よく言えば「創造的破壊」、創造するためには既成の価値はいったんぶっこわす。そのかなしみと恐れに満ちた時間を経た後でやってくる稽古場の頼りない時間をただよういとなみ……これがすばらしい上演の必須条件なのではないか。
昔見たプロボクサーの脳神経の観察を試みたドキュメンタリー映像を思い出す。一流のボクサーたちは相手選手の些細な動きを見逃さずに防衛のシグナルを脳内に発出する。それは繊細で、鋭敏で頻出される信号の波動が美しいほどだ。だから彼らはパンチを受けない。身体をそらし、ひねり、ブロックして、ほぼパンチを浴びないで時間を過ごすことができる。しかし、世界チャンピオンになるくらいのボクサーになると、その防衛のシグナルが出ない時間帯が現れるというのだ。防衛を捨てて、攻撃に踏み出す時間帯への選択。もちろん高い防衛技術があった上での「無防備」の効用なのだろうが、私は感心した。
自分が体験している「上演され具合」の違いを、これは説明してくれるのかもしれない。「正解」を捨てる「無防備」への選択。「美」とは、そうした破壊、自滅へのふみだしが必須なのではないか。それは、台本を生み出す際の自分の心の取り扱いにも近いものを感じる。またそれは後日書こう。(劇作家 公認心理士 鈴江俊郎)
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《鈴江俊郎作品上演情報》
2024年11月1日(金)~3日(日)
mintons「川底にはみどりの魚がいる」
作:鈴江俊郎 制作:ホリユウキ
場所:SCOOL(東京都三鷹市)
三鷹駅南口・中央通り直進3分