私の友人たちは謙虚です。自分には今からやりたいことがある。定年になった。時間ができた。劇団をつくろうかな。けれど、迷うのです。…自分のしたいことのために、人を巻き込むだけじゃないのか、と。
私の住む愛媛県の周桑平野には、明治か江戸のころに築かれた、田んぼの石垣がそのまま使われているところがあります。そんな石垣は「圃場整備事業」という土木工事が行われると取り崩されてしまう運命にあるものなんですが、等高線に沿ってぐにゃあーーっと曲がったあぜ道です。水が均等に張れるように平らに田んぼを仕上げるための必須のアイテムです。きめ細かく丸い石で水が漏れないように積み上げられているのです。
私は今ブドウの農園をやっていて、もちろん今どきのやり方で、パワーショベルを操って溝を掘り、塩化ビニールの管を這わせて給水し、巨大な掘削機を持ち込む業者に井戸を掘ってもらい、大きな電力でポンプを動かして地下深くから水をくみあげて植物に与える……というようなことをしています。
けれど、ときどきどうしても手作業でしなきゃいけないこともあります。石拾い、がそれです。ブドウの畑は石ころだらけです。だけどあんまり大きな石は、草刈り機の刃をいためるのです。だから時々石拾いが必要です。ころがってるこぶしくらいの石を拾っては一輪車に載せて集める。隣の畑の境界線あたりまでもってって捨てるのです。捨てた石は小山になってます。その小山は境界線で山脈のようになってます。それをここらの農家の人たちは「ぐり塚」と呼びます。すべての畑は四囲を高さ50センチから1メートルほどのぐり塚で明示されているのが普通です。
はじめのうち、その石拾いは何の苦もありません。しかし、30分や40分やっていると、石の重さがこたえてきます。一輪車は石をたくさん積んでると、地面の凸凹に足をとられて止まる。進まなくなる。無理して押すと倒れる。倒れると石が地面にこぼれて元の木阿弥。また拾う。畑の端はわりと遠い。40メートルも50メートルも凸凹の地面を一輪車を押すのは腰が痛くなる。石を持ち上げるのも繰り返すとひじが痛くなる。ようやく畑の端に到着して一輪車を倒して石にそこに下ろす。しかしうまく山の頂上には乗っかってくれないから、拾って積み上げる。ひとつひとつ。これが疲労の蓄積してきた身にはいちいち重いのです。
ぐり塚を、それから私は驚異の目で眺めるようになりました。こんな山脈みたいなの、一人の力では決してできあがるものじゃない。何人もの人が「さあ。やろう。」と気合を入れ、休み、働き、休み、働き、何か月かかけて作ったものだと今は身体で理解できるからです。その労働の風景と時間が想像できます。
周桑平野の真ん中に、必要なのかこれ?と誰もが思う信号機があります。とてつもなく見通しの良い農道の十字路に、青、赤、黄の信号。向こう一キロ、こちら一キロが四方向に見渡せる交差点です。そこ立つと、感じるのです。ここは、はるか昔は、ただの原っぱだった、と。こんもりした小山のぎりぎりまで今は田んぼで一面の緑ですが、すごいな人間、と感じるのです。
風景をかえたのは太古からの人間の重労働だ。飢えたくない村の人たちが、どうしたって何人も、何十人もでてきて「さあやろう」と石を積んだのだ。石を運び、取り除いたのだ。おそろしいことです。なだらかな斜面が、等高線も明確に、すべて平らな面の段々に変わった。地形を変えたこの光景は奇跡の光景と言ってよい。
これはイノシシや猿にはできない仕事です。そして、縄文時代の住居跡が発掘される里、古墳もあちこちにあるのがここらの里です。人間たちが力を合わせた証拠がそこここに見られます。
ここにいると、人間は力を合わせる生き物なのだ、ということが実感できます。
人間は競争して世界を発展させる、とか、緊張感のある弱肉強食の空気が発展のもとだ、とかいう説がありますが、私はここにいると、それは世界のほんの一部を説明するだけだと思えます。子供を厳しく殴るといい子に育つ、と言ってるようなもので、間違いではないが正解からは遠い。人間は仲良くする喜び、たたえあう楽しさ、協力する興奮がほぼすべてじゃないか。
世界のゆきづまりがあちこちで目撃される今こそ、私は、チャンスは素朴に、「協力する生物である」ことを再発見するところにあるのじゃないかと思っています。それが、ここまで生き残ってきた人間という生物種の特徴だし、希望ではないかと。
石垣は、私に語ります。遠慮なくやっちゃおう。人を巻き込んで、動こう、と。(劇作家 公認心理士 鈴江俊郎)