2月にドラマリーディングで上演した作品への反響はまだ今も私のもとに時折届く。
その中でもちょっと驚きだったのは、古い友人から聞かされた「この共通テーマへのちょっとした違和感」という言葉だ。「沈みゆくこの国」という共通テーマに対してだ。
ひとつは、経済的な低迷を沈没と言っていいのだろうか、ということらしい。経済だけが人の幸福ではない。そして、地方から露骨になっていく人口縮小、廃校、シャッター商店街や廃墟の出現はあるとしても、若者が移住してきてそこここに小さなおしゃれな町おこしのニュースもある。その小さな芽はもしかしたら波及効果を産む。沈没は被害妄想めいた気分とまではいわないものの、過剰な思い込みではないか……
もう一つの違和感は、国という単位にこだわることに対してだ。グローバリゼーションが経済の前提だから、いま国境のむこうとこちらでの差異を云々することに意味があるのか、という疑問。国境という線をたまたま引いたうえでこちらからそちらを見たら「隣の芝は青く見えた」というような感覚が「国が沈む」という言葉の中身じゃないのか。
私としてはこの違和感に対して、違和感がある。
いまの経済的な低迷は、たまたまの浮き沈みの一場面なのか?そのうち浮くのか?賛同できない。各種の統計、特に人口の予測は高い確率で未来を予言するもので、そこからくる右肩下がりの今後の経済はおそらく外れることのない予言のひとつだ。そして経済の低迷は、幸福感の基礎だということも避けがたい事実ではないか。清貧の生活に幸福を味わうのは高い精神の者だけが到達できる例外だろう。おしゃれな地方移住者の試みはよくニュースになるが、珍しいからこそのニュースだと思う。泥棒が犬をかんだらニュースになる。しかも撤退はニュースにならない。珍しくないからだ。報道など無責任なもので、真に受けていると地方は興隆しているような錯覚に陥る。おしゃれでハイセンスだけどその分高価な品は、金満の層しか選ばないだろう。
国境はもはやフィクションだ、というほどに、現実はファッショナブルでかろやかなのか?とんでもない。国民はその国家の貨幣を使わざるを得ないから、円を使う限り、行動を強く制限される。たとえばもはやこの円安では海外旅行は高価な出費の趣味になってしまった。国境の外に出て勉学をできる若者は、もはや金持ちの家に生まれる幸運が必要条件だ。いや貧乏旅行で語学の修行などいくらでもできる、と言う人もいるかもしれないが、貧乏旅行レベルの経験で、その国で定住が認められるような所得の職業に就職できるのか?それなりの正規の学校に正規の学費を払えないような外国人にはとても壁が高いのが現実だ。今や国境の壁はどこの国も以前より高い。一時的な旅行は受け入れても、生活が自由に国境を越えて許されるなどということは全くない。
円を持たずに米ドルをもてば円安の影響なしだよ、生活苦は避けられるよ、国境など関係ないよ、と言う人がいるかもしれないが、余裕資金を持つ人だけができる芸当だ。今や単身世帯の貯蓄額の中央値が百万円を切っている(金融広報中央委員会の世論調査2022年)のに、現実的戦術とは言えない。
この国にいる限り、人は次第に追い詰められていく。労組が強くならない限り、労働者が立ち上がらない限り、賃金は上がるはずがない。そして物価は上がる。労働時間の長い仕事を避けたら職は見つけられず、所得が高くなければ結婚のチャンスは遠のく。現に単身世帯はどの年齢層も増加中で、孤独な人生は相当な努力をしないと避けられなくなりつつある。たまたま生まれた子供も自殺数は年々過去最高を更新している。…しかし日本人は、この国から出られはしない。私の子供も、この国から出られないかもしれない。
私はここまで考えて、やはりこの人の「違和感」をあらためて不思議に思うのだ。知性を感じる人が、不思議に楽観性をもっているのだ。どこからくるのだろう?
何人か、こういう感想を聞いた。
おおむねそういう人たちは苦労人だ。現実の経済生活の苦しみをたくましく乗り越えている。学校卒業以来、生まれた地方都市で自営業をやっては長時間の高サービス提供業務に追われ、身体を壊しかけて廃業して都会に出る。民間企業に就職してからは一貫して強い営業ノルマを克服して長時間長年働き、いまや出世して上級管理職。いちいち職場の小さな不正義にとがった抵抗など示さないで周囲との順応を優先してきた長年の経歴はようやく人生の後半になってぶあつい周囲からの信頼を勝ち得た。重役は目前で、多忙だが充実感、幸福感、ともに高い。
妻子は高所得のもと恥ずかしくない暮らしをしているが、単身赴任の生活は長く、家庭生活は勤勉な彼の飛行機での往復でかろうじて維持されている。だがしかし、幸福は努力で獲得できた。だからできるのだ。幸福とは、努力の先にあるもので、それは当然だ。幼いわが子も幸福を勝ち取るだろう。
実家はいまや過疎の進んだ町で、生まれたころから寂れていく変化は見慣れてしまって、特に感情は今や動かない。町が変化するのも当然だ。彼らだって頑張ればきっとなにがしかの充実や幸福は来る、と信じられる。
かたや私は、はじめの都会での就職が公務員で、強い労組が高い労働条件を闘い取っていた。転職やら無職やらをくりかえして労働条件は変動したけれど、教員業の長時間労働に耐えられなかったのは、最初の労組が獲得していた基準が身に染みていたからかもしれない。子供と添い寝できない生活をあきらめるくらいなら移住も転職もいとわない感覚できたから、その通り移住、転職歴を積み重ねた。普通に一か所に生活していたら幸福は遠のく。小さな不正義に抗議し、違和感を表明する生活は、同志を得ることも少ない人生、防戦一方の人生だった。
はじめて来た過疎の町での数年間は初体験が衝撃で、寂れていく町の変化には慣れない。脅威を感じる。幼いわが子の未来は恐怖の中にある。
闘う労組のもとで暮らす経験のなかった人の、高い幸福感、明るい予感。闘う労組のもとで暮らした経験がある人の、喪失感、低い幸福感、暗い見通し。
人権が侵される事件があっても決起しない常識ある成功者の幸福感。人権侵犯にすぐ怒ってしまう者が積み重ねる敗北感、失地が回復できない喪失感。
その対比が、この共通テーマに違和感を持つか持たないかの分かれ目だろうか。
上演して、感想を聞く。そして改めていまはどんなことになっているのか、世界をあじわう。そんなことをやっている感じがある。(劇作家 公認心理士 鈴江俊郎)
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《鈴江俊郎作品上演情報》
5月9日(木)~11日(土)
月波兎第1回公演『いちごの沈黙。2024』
作:鈴江俊郎 演出:インディー・チャン
出演:八十川真由野 櫻井麻樹 奥山美代子
場所:こった創作空間
新宿三丁目駅より徒歩 3 分 新宿駅東口より徒歩 10 分
https://tsukinamiusagi.blog.jp/