イスラエル軍とイスラム組織ハマスの戦闘は、ロシア国内にも波紋を及ぼしているようです。10月29日、ロシア南部ダゲスタン共和国の首都マハチカラの空港に、デモ隊数百名が集結し、滑走路になだれ込んで、イスラエルのテルアビブから到着した飛行機を襲撃しようとしたのです。この騒動で20名以上が負傷し、空港は一時閉鎖となりました。一体なぜこのような暴動が起こったのでしょう?
ダゲンスタン共和国の多くがイスラム教徒です。空港に集まった群衆もそうなのでしょう。彼らは同じイスラム教徒であるパレスチナ人に連帯を示し、飛行機に乗っていたイスラエル国民、すなわちユダヤ人やユダヤ教徒に危害を加えようとしたのです。ロシアの治安部隊によって鎮圧されましたが、これで収束したとみるのは早計でしょう。同じロシア南部の共和国でイスラム教徒の多いカバルダ・バルカルでも、建設中のユダヤ人センターが放火されました(『讀賣新聞』2023年10月31日)。
なおロシア当局は、この暴動がウクライナに扇動されたものだと述べ、捜査に乗り出したそうですが、真相はどうなのか。ともかく、この騒動がロシアとイスラエルの関係を損ねたことはたしかでしょう。
今回の事件の背景には、ロシア国内のイスラム教徒たちのイスラエル、ひいてはユダヤ人やユダヤ教徒への反発があるということでしょうか?その意味では民族対立ないしは宗教対立に火がついたともいえそうですね。
実はユダヤ人に対する反感は、単にロシア国内のイスラム教徒にとどまるものではないのです。ロシア人のあいだでもユダヤ人嫌い、ユダヤ人蔑視の感情が厳然として存在しています。
それはどういうことでしょう?
昨年の5月1日、ロシアのラブロフ外相がイタリアのテレビ局とのインタビューで「ヒトラーにはユダヤ人の血が入っている」と発言し、物議をかもしました。ゼレンスキー・ウクライナ大統領を「自分はユダヤ系だからウクライナにナチズムは存在しないと言っているが、それは正しくない。最大の反ユダヤ主義者はユダヤ人自身だ」と批判するなかでの言葉でした。
当然のことながらイスラエル側は猛反発し、結局、プーチン大統領が謝罪することで事態を収拾させました。ラブロフ氏がいかなる思惑でこんな発言をしたのかわかりませんが、ここから透けてみえるのは、こうした風説がロシア国内に案外広く流布しているらしいこと、そしてその根底には反ユダヤ感情があることでしょう。
「ネオナチ」をユダヤ人と同一視するのはあまりに杜撰な暴論に思えますが、ロシア国民はどう考えているのでしょう?
実はロシアにおける反ユダヤ主義は、歴史的にも根深いものがあります。たとえば「ポグロム」とよばれるユダヤ人への集団暴力はよく知られ、19世紀の終りから20世紀初頭にかけて多発しました。帝政末期の社会的混乱のなかで、ユダヤ人が大勢暮らしているウクライナとロシア西部を中心に、彼らユダヤ人への略奪や殺害が大々的に行われたのです。ロシア革命のさなかにも、反革命勢力がユダヤ人を攻撃しました(『ロシア・ソ連を知る事典』平凡社、「ポグロム」の項参照)。
たしか1930年代、スターリン政権はユダヤ人たちの自治を認め、彼らのためにソ連国内に「ユダヤ自治州」をつくったと聞いたことがありますが、本当ですか?
はい、本当です。スターリン政権にとっても国内のユダヤ人問題は重要課題の一つでした。彼らの自立を助けることを名目として、当初はクリミア半島にユダヤ人自治区をつくる案を進めましたがうまくゆかず、1934年、ソ連極東の中国との国境地帯に「ユダヤ自治州」(州都はビロビジャン)を創設し、ユダヤ人の入植を促したのです。
しかし実質的には、ユダヤ人の隔離政策であって、彼らの結束や反抗を危惧したスターリンは、第二次世界大戦前後に多くのユダヤ人指導者の殺害を命じました。
現在の「ユダヤ自治州」は名ばかりで、ユダヤ人は人口の1%ほどしかいません。戦後、ソ連欧州部へ移動するか、米国やイスラエルに移住してしまったためです。
ユダヤ人は結局のところソ連に安住の地を見出せなかったのですか?
そういうことです。ユダヤ人の旧ソ連からイスラエルへの移住は1960年代終りに始まり、ソ連崩壊後の1990年代をピークとして、計120万人に達するそうです。イスラエル人口が約760万人ですから、イスラエル国民のおよそ6人に1人がロシア(ソ連)からの移民ということになります(『朝日新聞デジタル』2010年9月15日、鶴見太郎氏の論考)。彼らは母国を捨てた人々ですから、当然、今のロシアとイスラエルの関係に複雑微妙な影を落しています。
ところで、ロシアがウクライナ政権を「ネオナチ」呼ばわりすることは、全く根拠がないとはいえません。第二次世界大戦中、ナチスドイツ軍がソ連領に侵攻した際、これを独立の好機と考えた一部のウクライナ人がナチスと手を組み、ソ連軍と戦った事実があるのです。結局そのウクライナ人たちもヒトラーによって殺されてしまうのですが。で、今NATOと「結託」してロシアと戦っているゼレンスキー政権も、ナチスに協力したウクライナ人勢力と同じだとのロジックになるのでしょう。そしてウクライナには多くのユダヤ人が住んでいましたから、「ネオナチのウクライナ政権」が「ネオナチのユダヤ人」という発想に飛躍するのだと思います。
さらに続けますと、2022年2月、ロシア政府が「非ナチス化」を掲げてウクライナに軍事侵攻を始めると、ロシアに暮らすユダヤ系市民は、自分たちがスケープゴートにされるのではないかと心配したそうです。このウクライナ戦争がロシア人のあいだで、ユダヤ人憎悪を掻き立てるのではないかと恐れたのです。そして戦争開始から半年ほどで2万人以上のユダヤ系住民がロシアを脱出したといわれています。
こう考えますと、ウクライナ戦争にせよ、そして現在の中東危機においてウクライナがイスラエルを支持し、ロシアがパレスチナ側に立っていることにしても、「ユダヤ問題」が深部にあるのではと思われてきます。このへんの事情は、東洋の外国人であるわれわれには理解が困難なところです。
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