私は京都生まれ、京都育ち。旅行や仕事以外で「京都」から出たことがない、いわゆる「京おんな」です。でも今の住処は田の字地区といわれる中心地区ではなく、御土居からも少しだけ外れたところなので「洛外の京おんな」です。テレビなどで芸能人が「京都出身」を売りにしている人たちがいますが、この場合の「京都」はどこを指すのか、は京都人にとってわりとチクチクとチェックしたがります。自分の思い指す「京都」のエリア外であると即座に内心で「フンッ」といった心情で見る気がします。かといって、自分の思う京都地域以外の京都の人を嫌うとかの話とはまったく違うのです。ただ、自分にとっての「京都」ではない京都人に対しては、一瞬の「ふんっ」というものが心でうごめく、それが京都人ではないかと思っています。あくまでも洛外の京おんなの個人的見解です。
さて今回ご紹介する「イケズの構造」ですが、言うまでもなく京都のことです。いまだに流れとして(きっと編集者の意向ではないかと思うのですが)ぶぶづけの話(お茶漬けの話)とか例に出されていますが、わりとそうやなあと思えるところもいろいろ書かれています。筆者の入江敦彦さんご自身が西陣でお育ちということなので、京都人のいろーんな面を肌で感じ、染み込ませてこられた方なのだと思います。イラストがひさうちみちおさんというのがまたイケズに拍車をかける味わいをもたらしています。
そもそも「イケズ」ですが、標準語の「いじわる」とは意味合いが少し違います。「いやみ」ともちょと違う。千二百年という歴史が積み重ねてきた独自の文化ではないでしょうか。
ところで私自身は鈍いタチで、時にはイケズに気づかず、寝る頃にあれは!と気づいたりすることもあります。鈍さが盾になったのはよかったと思う時です。
なにより「イケズ」はアホではできないことです。頭の回転がクルクルッとよう巡らせられる人でないと応じられない。私のように後から気づく、というとろい人間はイケズも暖簾に腕押しかもしれませんし、それがまた次のイケズのネタになるのでしょう。
ただ私が小さい頃、うちの母は、私のお稽古先の師匠から、「おたくはお子さんの足が太ぅならんように気ぃつけたはるんですか」みたいなことを言われた、と大人になってから聞かされたことがあります。つまり正座がきちんとできない私のことを、遠回しにおっしゃったのでしょう。ちなみに今は亡きその恩師は私の人生で親の次に大事な存在となりましたが、当時は若くてその世界でバリバリと活躍されていた師匠には、正座のままならない子どもにもイラつき、母に言うしかなかったのでしょう。
かくいう私はイケズをしないのか。そうやねえ、洛外の京おんなですし、そんなコウトなこと、ようせぇしませんわ。(ふるさとかえる)