「人間の安全保障」とはどのようなものでしょうか?
日本外務省のホームページに載っている説明を要約すれば、「人間一人一人に着目し,生存・生活・尊厳に対する脅威から人々を守ること」と定義できるでしょう。従来の安全保障が主として国家の防衛を意味したことに対し、人間個人に焦点を当てたことに新味があります。
1993年、「国連開発計画」(UNDP)の報告書のなかで初めてこの語が用いられ、以後、国連の人道支援の主要な概念となりました。2000年に国連で採択された「ミレニアム開発目標」(MDGs)、2015年に採択された「持続可能な開発目標」(SDGs)もこの「人間の安全保障」を発展させたものです。当初から日本もこの考え方に賛同し、いろいろ貢献してきました。
たとえばどのようなことでしょう?
1995年、村山富市首相は国連50周年記念総会特別会合で演説を行い、「人間の安全保障」への全面的支持を表明しました。1998年には小渕恵三首相が「人間の安全保障基金」の創設を提案し、翌年発足しました。2001年にアナン国連事務総長が来日した際、森喜朗首相の提案を受け、「人間の安全保障委員会」の創設が発表されました。その共同議長に就任したのが先日(10月22日)お亡くなりになった緒方貞子国連難民高等弁務官とアルマティア・セン・ケンブリッジ大トリニティ・ガレッジ学長でした。
こうしてみると、1990年代半ばから2000年代初頭の日本は、今よりもずっと平和国家としての矜持があったように思えますね。
そうですね。特に緒方貞子さんの活躍には目覚ましいものがありました。その追悼番組の一部をご覧ください。
まさに「小さな巨人」と呼ぶべき偉人でした。この映像の終わりで、緒方さんが今の日本について「非常に耐えられない思い」と絶望感を吐露していることをわれわれは重く受け止めなくてはなりません。そしてもう一人、12月4日にアフガニスタンで殺害された中村哲氏もまた「人間の安全保障」の実践者でした。次の追悼番組でその肉声をお聞きください。
両氏とも、日本という国家の枠を越えたスケールの大きい国際人でしたね。
はい。そもそも「人間の安全保障」は国家という枠を越えなければ実現できないものなのです。国家は所詮、国家の安全保障のためにしか動きません。国家が守るのは国家であって、人間ではないからです。
どういうことですか?
国家が目指すのは国家そのものの存続と国益の最大化です。そして国家に奉仕する者を支配者に据え、権力を分与するのです。逆に、国家に役立たない者は底辺部に押しやられ、虐げられるのです。「人間の安全保障」とはこの底辺部に押しやられ、虐げられた人々をこそ中心部に据えようとする思想です。極論すれば、人間の尊厳は国家よりも重いのだという発想に立っています。ですから「人間の安全保障」は本来的に国家と対峙し、敵対関係にあります。
でも国家は、現にわれわれ国民を守ってくれているではありませんか?
それはわれわれが国益に奉仕するかぎりにおいてのことです。戦争がその極端な例です。国家が存亡の危機に立たされたとき、国家は国民に命を差し出すことを命じるでしょう。沖縄の辺野古埋立問題も同様です。国防の問題は国家の専権事項だから、国民(当たり前のことですが、沖縄県民も国民です)の犠牲はやむを得ないというわけです。国民のために国家があるのではなく、国家のために国民があるというのが国家の本質です。
では「人間の安全保障」を実現するためには、国家を否定しなくてはならないのですか?
わたしはまだそこまで突き詰めて考えていません。ただ、はっきり言えることは、「人間の安全保障」に取り組んでいる主体は国家ではなく、国連などの国際機関や地方自治体、NGO、ボランティア活動に従事する個々人です。紛争、災害、飢餓、環境汚染、人権侵害など人間の安全を脅かす問題は、しばしば国家がもたらしている面を見逃してはなりません。ですから、その解決のために国家に頼ることには大きな矛盾があるのです。われわれはどこかで国家を見限る勇気が必要なのかもしれません。
何を言いたいのですか?
実は国家を否定する思想であるアナーキズム(無政府主義)について、もっと勉強したいと思うようになっています。実際、昨今いくつかこの思想を取り上げた本が出版されています。どうやらわたしと同じことを考えている人、いや、もっと先を行っている人たちが日本にも結構いるようなのです。ご参考までに次の著書を挙げておきます。
・浅羽通明『アナーキズム』ちくま新書、2004年
・森元斎『アナキズム入門』ちくま新書、2017年
・栗原康『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ』岩波新書、2018年
果してこの思想が単に政府を否定するだけの破壊的なものなのか、それとも「人間の安全保障」を実現し得るような建設的なものなのか、これからじっくり見極めようと考えています。