「先生のお庭番」とは江戸時代後期に阿蘭陀から来日したしぼると先生が、日本に医術を伝えるために出島に作った薬草園の園丁を任された十五歳の熊吉のこと。経験不足を補うように知恵を絞って工夫を重ねる熊吉に「よか薬草園だ、そなたはよか仕事する」と言うしぼると先生。異国の文化に触れ、しぼると先生を慕って集まる若者たちが熱心に学び、議論する様子に刺激を受けながら成長する熊吉の高揚感が伝わって、前半は読んでいてワクワクします。
けれども夢のような日々はやがて終わり、後半はまるで黒から白に次々と変わっていくオセロゲームのように、状況が一変。尊敬していたはずのしぼると先生像まで揺らいでいくのが、なんとも辛い。同じ朝井まかてが幕末の内乱に翻弄された歌人の中島歌子を描いた「恋歌」でも、弾圧した側が今度は虐げられる側になる劇的な変化が印象的でした。
思えば「シーボルト事件」とか「オランダおいね」とか、言葉は知っていても、それがどんなものだったのか、シーボルトの娘イネはどんな女性だったのか、歴史にさほど興味がない自分には、単なる記号でしかありませんでした。その時代を生きた人たちの心情に思いを馳せることが出来るのが、小説の魅力。フィクションとは言え、熊吉のとった行動が思わぬ影響を与えるのも面白い。教科書や歴史書に出てくるのは著名な人物だけだけど、熊吉のような名も無き人の行為がその後の歴史に大きな役割を果たしたり、時代に影響を与えることもあったはず。シーボルトは妻の滝を「お滝さん」と発音できず、「オタクサ」と呼んでいたそうで、ヨーロッパに持ち帰った紫陽花を「ハイドレンジア・オタクサ」と名づけたことが知られています。先生の帰国後、再婚した滝さんのその後が気になります。(モモ母)