ご常連の皆さんも増えてきましたが、このへんで評を厳しくしていきたいと思います。俳句はちょっと気をゆるめると、たちまち弛緩した散文の切れ端になってしまいます。
この場が、詩的純度の高い凝縮した表現を求めて互いに切磋琢磨する「俳句道場」になればと考えております。辛口評にもめげずにご参加頂ければ幸いです。
△幼き日将棋くづしの涼み台 蓉
【評】俳句とは、過去の出来事を現代に蘇らせる秘法です。ですから「幼き日」は要りません。過去のことであっても現在只今の句として作りましょう。〈兄とする将棋崩しや涼み台〉。
△夕立や草木も人も一息す 蓉
【評】述べていることが常識の範疇で、作者の意識が日常感覚にとどまっています。〈草木も人も一息す〉が月並表現なのです。それをどう独自に表現できるか。そこが俳句の勝負所です。
△撫づるごと男黙して墓洗ふ 妙好
【評】「男黙して」に気どりが見えます。「男」とは誰でしょう。誰の墓を洗っているのでしょう。そもそも墓は黙って洗うのが普通では?〈背をさするごと母の墓洗ひけり〉。
△今朝の秋手に水荒れのきざしかな 妙好
【評】「今朝の秋」の本情は、秋を能動的に迎え入れる心です。つまり爽やかに作らなくてはなりません。「手に水荒れのきざし」が見えることは喜ばしいこととは思えません。〈水をよく弾く手の甲今朝の秋〉など。
〇湧水をふくみて甘き白露かな 音羽
【評】一応よくできています。論理的には〈ふくみたる湧水甘き白露かな〉でしょうか。ただし水に対して〈甘き〉という形容は月並かもしれません。
〇秋燈の片手で外すイヤリング 音羽
【評】スタイリッシュでお洒落な句です。ただ〈秋燈の〉の「の」が気になります。〈秋燈下〉あるいは〈秋燈や〉と切った方がよいでしょう。しかし「や」という切れ字が強すぎるかもしれません。それなら倦怠感を前面に出し、〈夏の果片手で外すイヤリング〉と作るのも一法でしょう。
△キリシタンの故地なる浦上原爆忌 マスオ
【評】俳句は常に最上の読者を念頭において作りましょう。浦上と言えば、原爆投下だけでなく、隠れキリシタンの里であることもわかってくれる人を念頭において作るのです。それを知らない(あるいは自主的に調べようとしない)人など相手にしないことが肝心です。最上の読者を念頭において作るなら〈キリシタンの故地なる〉は余計な説明です。〈キリシタンの故地〉が言いたいなら、「浦上」は削りましょう。どちらか一方で十分です。それでも不安なら、前書きに「キリシタンの故地なる浦上にて」とでも記して下さい。読者が俳句を選ぶように、俳句もまた読者を選ぶのです。
△弟負ひ立ち尽くす兄原爆忌 マスオ
【評】写真を見て作った句ですね。こういう句をわたしは作品として認めません。どんなに言葉を尽くしても、あの写真の前では空しくなるばかりでしょう。そっと自分だけの日記に書き留めておいてください。
△夏の月母は幾度も脈を診て 永河
【評】お母さまは医師なのでしょうか。何度も脈を診なくてはならないとすると、相手はよほど深刻な病状ですね。そんな切羽詰まった状況の時、季語「夏の月」は風流過ぎませんでしょうか。しかも「夏の月」を最初に持ってくると、一瞬戸外を連想させます。「梅雨の夜半」くらいならまだ納得できるのですが。母の脈を診るということなら〈幾度も母の脈診し梅雨の月〉とでもなるでしょうか。先に脈を診ることを述べておけば、あとで月が出てきても、室内の句だと見当がつきます。
△甲虫見つけむ朝は子ら駆ける 永河
【評】「見つけむ朝」は語法としてやや強引です。「見つけむとする朝」ですね。また「見つけむ」は文語ですので、口語「駆ける」も「駆くる」と文語に統一しましょう。〈甲虫見つけむとして子ら駆くる〉。ただ、もう一つ具体的な描写がほしいですね。別の句になりますが、〈ふるさとの山へ子供と蟬取りに〉など。
△老鶯の一羽侍らふ島の御所 える
【評】「隠岐の島にて」との前書きがあります。鶯に対し「侍らふ」という謙譲語を用いたのは、後鳥羽上皇を偲んでのことですね。こういうところに俳諧味を見出し、高く評価する人もいると思いますが、わたしにはそのよさが分かりません。もっとすなおな写生句が好きです。
△浮かび出て目に染み入るや螢草 える
【評】汗なら目に染み入るでしょうが、螢草はどうでしょう。ちなみに螢草とは露草の別名。露草に〈浮かび出〉るイメージがわたしにはありません。螢草の「螢」からの連想で作った、つまり言葉の綾だけで作った句のような気がするのですが、いかがでしょう。
△おけら鳴くベンチにひとりづつ読書 徒歩
【評】いくつもベンチがあって、それらのベンチに一人ずつ座って読書しているのですね。けっこう広い視野から作った句ですが、おけらはそんなに大きな声で鳴くのですか。「蟬しぐれ」くらいなら、例えば「公園内の情景かな」などをイメージが湧くのですが・・・。
△片枝に下がるぶらんこ野分あと 徒歩
【評】「片枝」だと何となく折れそうで、不安感をさそいます。「太枝に」なら落ち着きますが。それに季語も一考を要します。全体的に殺伐としていて、詩的な高揚感が得られませんでした。わたしは読んで気持ちが高まる句が好きです。
△~〇農機具を仕舞ひてぬぐふ玉の汗 美春
【評】ご自身の動作を詠んだ句だと思いますが、本来日本語では、形容語としての「玉」は美称ですから、自分自身に対して使うものではありません。だれか一生懸命に働いている人の汗を尊いと感じて「玉の汗」と形容するわけです。ただ丸い形だから「玉の汗」ではないのです。第一自分の汗なら、玉だかどうか見えませんよね。〈農機具を仕舞ふ夫に玉の汗〉くらいでどうでしょう。
△真夏日や色褪せ速き生花なり 美春
【評】色の褪せるのが早くてびっくりされたのでしょう。しかし、この句に作者の驚きはあっても、感動は感じられません。「真夏日や」も色褪せが早く進むことの理由のように読めてしまいます。俳句は詩です。詩にはときめきがほしいものです。読者をときめかせてください。
△幼子にせがまれ探す秋の蝉 織美
【評】〈せがまれ探す〉では、いやいや探しているようで、読み手も何だか疲れた気分になります。もっと前向きに、心が浮き立つように作りましょう。作者の心が浮き浮きとしていなければ、読者の気持ちも高まりません。読者は自分の気分を高めてくれる句を読みたいのです。それが詩の効用であり、俳句とて同じです。せめて〈幼子と一緒に探す秋の蟬〉と作ってくれたら、読者の気持ちも和むでしょう。俳句は幸福のレシピであることをお忘れなく。
△秋蝉や長き休みの終わりたる 織美
【評】ただの理屈を述べただけの句です。ヒグラシやツクツクボウシが鳴くころには夏休みも終わりますからね。この句を読んで、果して読者の気分は高まるでしょうか。あるいは織美さんはこの句によって自分の気持ちが少しでも晴れ晴れとしたでしょうか。われわれは毎日しんどい思いをして暮らしています。せめて俳句によって心を浮き立たせたいものですね。そうでなければ俳句を作る意味がありません。
△漬け瓜に塩擦り込めり夕しぐれ 多喜
【評】「しぐれ」は冬の雨です。数か月後に出していただきたい句です。
△ファン唸る作業服着る庭師かな 多喜
【評】「ファン唸る」で切れますが、「かな」で終わる句は途中で切れてはいけません。それに庭師が作業服を着ることのどこに驚きなり感動なりがあるのでしょう。わたしには当たり前のことにしか思えないのですが・・・。
△夕立来て息吹き返す畑かな 万亀子
【評】その通りなのでしょうが、このままでは世間話程度のつぶやきです。「息吹き返す」という手あかの付いた言葉でなく、自分だけの表現を見付けてほしいと思います。わたしの先師である細見綾子先生は、草花の前に30分ほどずっと座り込んでいたそうです。そうすると、やがて草が何か語り掛けてくれるのだそうな。一つの詩的表現を得るためには、そのくらいの忍耐力が必要なのでしょうね。30分とは言いませんが、まずは心を無にして、夕立あとの畑を10分でもいいので見続けてください。きっと畑の野菜たちの個々の表情が見えてくるはずです。
△二つ三つ畑はみ出す南瓜かな 万亀子
【評】たとえば「二十二、三」ならば曖昧な表現も許されますが、二つなのか、三つなのかは迷わず数えられるはず。「二つ三つ」のような曖昧な表現は、対象をしっかり見据えていない証拠です。はみ出している南瓜としっかり向き合いましょう。そうすれば、もっと鋭い、引き締まった表現が見出せるはずです。
〇ひと鳴きし夕べに交尾む法師蟬 さざ枝
【評】「交尾(つる)む」という言葉はあまり好きでないものの、この句は佳いと思います。何より作者がしっかりと法師蟬を見ています。〈ひと鳴きし〉にリアリティーを感じます。命あるものの愛おしさとあわれが伝わってきました。〈夕べに〉が削れるといいですね。法師蟬にすでに夕方のイメージがありますので。
〇蓋開けば生簀の烏賊の色変へる さざ枝
【評】「開けば」は「ひらけば」ですね。とすれば上五が字余りになりますので、「蓋取れば」でいかがでしょう。それから〈烏賊の〉ですから、「色変はる」と受けたほうが自然です。〈蓋取れば生簀の烏賊の色変はる〉。本当は何色に変わったのか分かるとさらにいいのですが、それでも烏賊の命としっかり向き合った佳句です。
最初にも書きましたが、辛口の評歓迎の皆さんの果敢な投句を期待します。次回は9月17日にアップの予定です。河原地英武